昭和48年5月29日 朝の御理解

御理解49節 信心は相縁奇縁。



 さまざまな信心があります中に、金光様の御信心を頂くようになったと。やはり、一つの縁が、気が熟して来なければ、やはりそういう関わり合いになって来ません。たとえば教会の側におりましても、金光様のこの字が言おうとする事すら知らない人が、普通ならありませんから。その中でもまた、なら合楽なら合楽という教会に縁を頂くという事はもう、それは大変な不思議な事である。ね。その不思議な縁が元となって、お互いが信心になって行くという。または、それが育たずに途中半端になって行くというような場合もあります。

 それが、どういう事から、そういうせっかく御縁を頂いたのに、不思議な縁で縁を受けたのに、その縁が薄れたり消えたりして行くというのは、どうした事なのか。せっかく御神縁を頂いたのであるから、そのおかげで今日このような幸せがあるんだ、幸せを頂けたんだというおかげにかかって行かなければならん。信心はいわゆる愛縁奇縁である。お道の信心では、あいよかけよという言葉を教祖様はお使いになってる。それは、岡山地方の方便でしょう。ね。二人の者が力を合わせるというような事を、教祖はあいよかけよと(いう、こう?)。

 この、あいよかけよの働きというものを知らず、またそれを行わずしては、縁はどんなに例えば金光様の御信心が有り難いの、合楽ではおかげが受けられる中、徳が受けられる中にいてもです。ここのところの信心が分からないと、それは大した事はない。ね。いわゆる、あいよかけよという二人の者が力を出し合うとこう言う。教祖様はそこんところを、神も助かり氏子も立ち行くというように、神様と氏子が力を出し合ってと言っとられる。ここから神も助かる、氏子も助かるという道が開けて来るんです。

 または、そういう道の開けて来る事を願いとしての信心から、私はいよいよ御縁を頂いたという事が有り難いという事がますます分からせてもらえれる信心に進んで行くことが出けると思うのです。ただ神様と言や、手を打ってから、どうぞ、どうぞと言うてお願いをして帰る。いわゆる、おかげを受けるとこういう。ね。それが、信心のように、例えば観念しておる人がある。ね、だから悲しい時の神頼み。まあ、もちろんそういう大きな神徳の神頼みから、奇跡的なおかげを受けて。それから、金光様、神様だとこういうようにもなって来る訳ですけれども。ね。

 だんだん、信心が分かって来ると、このあいよかけよという事が分かって来る。私は今日御神殿で、おかげを受ける、おかげを現すという事を頂いた。おかげを受ける、おかげを現す。違うんです。ね。おかげを受けると言うのは、ね。神様どうぞお願い致しますと、例えばお取次ぎを願って、お取次ぎのお徳とでも申しましょうか。ね、そのお取次ぎのお徳によっておかげを受けるのです。ところが、今日のこの神、愛縁奇縁という御理解の中から、今私があいよかけよという事との関わり合いを皆さんに聞いておりますけれども。この、あいよかけよという事になってまいりますとね、これはお互いの力を出し合って生まれて来る、もう予想もしなかった。ね、素晴らしい良い物が生まれて来る。

 神様も助かって下さりゃ、私共も助かる。それが、私はお道で言う愛縁だと思う。ね。信心はそういう愛縁になって行かなければならん。神様と私共の縁がいよいよ未知なるものに結ばれて行かなければならん。神様からもらうだけのが信心である、という、ね、そういう事もあります。おかげを受けるとは、何も信心が、まだ拝んだ事もないという人が、様々な難儀を持ちこんでくる。それが不思議とおかげになる。ああ、神様っちゃあ新たかな事だと言うて、まあ信心もするようになるけれども、と言うてそんなにいつも、棚からぼた餅が落ちてくるようなおかげばかりを下さるはずがない。それは、親神様だから。

 いわゆる、信心を分からせようとなさる、神様と氏子との縁をいよいよ神様が固く結ぼうとなさる働きが生まれて来る。ね。ですから、例えば難がみかげと仰る、難儀なら難儀というようなところを通れば通るほどです。その難儀という事によって、いよいよ固く結ばれて行く訳です。神様と私共が。そして、なるほど難はみかげであるなという事が分かって来る。ね。そこで、なら四神様が、難あって喜べと仰るのはそういう事。難の度に御神意、御神慮の深さが分かって来る。もういよいよ、神様なしにはという事になって来る。

 そこから、神様と私共のいよいよ、あいよかけよが始る。それはね、人間関係においてもそうです。昨日も竹葉会、若い嫁さんばっかりの信心共励でした。一人ひとり信心の発表をしてもらったですけども、ある若い嫁さんが言ってます。親との、姑親との間がうまく行かない。主人との上にもピッタリと行かない。本当にここに、親子主人との間がピッタリ行っていきゃあ、この仕事も楽しゅうスムーズに行くだろうと思うけれども、その仕事がスムーズに行かない。

 もう中場あきらめるというところまで行ったけれどもです。ね。御理解が、ね、いわゆる御教えが心に生き生きと甦って来た。ね。だから、もう、まあ、そこんところを大変ややこしい言葉でしたから、まあ分かりやすく言うならです。もうどんなに、ならお母さんに尽くしても、尽くしても、お母さんは尽くしたと受けて下さらなかった。主人にどんなに頼んでも、仕事の方は、まあ沢山な百姓をしておられますが、お前に任すると、自分は他の仕事に行かれると。ね。

 言うならば、(のれんにうでおし?)のような感じだけれどもです。御教えを頂きますとです、それは大きな岩に向かって一生懸命力んでこの岩を動かそうとして、動かない物はもう動かないのだと。どんなに、なら、その真心を持ってすれば通ずると言うてもです。どんなに真心を持ってしても、ならこの親は絶対に動かんというところまで行ったんです。ね。ところが、例えばなら、なら動かんでもです。相手は動かなくても、動かない、ただそういう中に自分に教えがだんだん力になって来ておる事に気付いてきた。

 ね、一生懸命押しておる内にです。これは動かないけれども、自分の腕の方に力が受けて来たとこういう。ね。ですから、もうこれは変わらなくても良い、ただ自分が一生懸命信心になりさえすりゃええ。とにかく、働くという事は旗を楽させる事だ。仕事とは事に仕える事だと教えられるのだから、もう本気でその仕事に仕えようと思うんだ。本気で旗が楽になる事の為に、もうそれは、ずいぶんな大変な仕事らしい。ね。もう、何段という田んぼをしておられる。

 お話の中にも、一端半からの植木を何日間の間でこれを(       )ならんという。これはもう、どうでも時間切っての仕事。それを、もう自分がどげん考えて一人で出来るはずはない。それが、それを取らないと村内全体に迷惑が掛かるといったような事です。それでも、どうにも仕方がないから、神様におすがりするより他にない。そこで、時間がいわば日にちが迫って来た時に、あの、村内の方達が総手でそれを御用して下さった。もうそりゃあ、他所んとじゃけん、いきなりさんぱちですね、もう引っこいでから、ガラガラこう退かすといったような事だったらしい。

 ところがそこにです。その(うえび?)でなからなければならないという人が現れて、全部買いとってもらったという話です。ね。もうそこにはです、本当にあの、五と五と足せば十になるといったような理屈のものではなくて、信心とはどういう矛盾であってもです。それが、もちろん願い関係が伴う事もある。矛盾を感ずる事もある。これは、みすみす損という事もあるけれども、信心の教えを持ってする時にです。そこに、五と五を足せば十になるといったようなものではなくて、五、五、二十五といったような応えが出てくるのです。

 ね、そういう例えば、なら難しい矛盾だらけの現代においてです。人間が生きて行くという事は大変な事である。ね。そこのところをです、二人の者が力を出し合うて行くというような働き合い。ね。とくに、夫婦でもそうです。ね。ただ、相手に求めるという事だけ。ね、求めても与えられない、主人が私を大事にしてくれないと、こういう。自分が大事にしない事は棚に上げんで。ね、だからお互いが、いわば捧げ合うという生活。出し合うて行くという生活。それが、あいよかけよの生活なんです。

 そこからは、ね、思いもかけない、これはそれこそ夢にも思わなかったようなという、素晴らしい良いものが生まれて来るんです。今日私は、御神前で先ほど申しましたような、おかげを受ける、おかげを現すという事を頂いたが。ね、おかげを受けるというのは、親先生どうぞお願い致しますと言うて、お願いをして、ね、親先生のお徳でおかげを受ける、頂くのがおかげを受ける。ところが、金光様の御信心はそうではない。と言うて、なら願った事が、はいそうか、ああそうかと言うて下さるような事は、もう絶対ないのだから。ね。

 例えば、(ともん?)の足に十一文の靴を買うてくれと言うても、親が買うてやるはずはありませんよね。ね。自分というものを知る、自分は、(ともんなら、ともん?)というところでちょうど良いのにです、私共が、なら十一文とか十二文をくれといったような、無理な願いをしておるような事はないだろうか。ね。そういう場合に神様が、なら、ああそうかと言うて、なら大きい靴を下さるはずがない。ね、というようにです。おかげを受けるという事は、私共が願は願いとおりにおかげを受けるという事とは違う。

 受け物もなしに受けるという事もあるけれども、それは長く続くモンじゃない。そして、お願いはしたけれども、おかげを受けきれなかったと言うて、せっかくの縁を不意にして行く人もある。そこで、信心が分からせて頂いて、様々な願い関係も矛盾も乗り超えての、言うなら信心が(   )頂く時にです、分からせてもらうのが、あいよかけよである。子は親のことを願い、親は子の事を願うと、願い合うて行くという信心。ね。そこには色んな矛盾がある。願い関係がある。

 次に、私が頂いたのですけれども。あの、栗ですね、果物の栗。栗をこう頂いた。そしたら、もう一つはあの、ウニを頂いた。ウニも、あれは海の栗って言われるから、よく似てますよね。(            )。ね。例えば、栗などの場合は、そのジガジガしとるとば、こう剥いたところでです。中には、まあだ、その青い実しか入ってない。だから、それをジッと辛抱して、時節を待たせて頂くと、あれがこうして綻びて来る、割れて来る。そして、中から円らな栗の実が転げ出て来るようなおかげ。時節を待っておかげを受ける。

 どういうイガイガ、ジガジガするような事でもあっても、それはジッと金光様、金光様。この時に矛盾を感ずるわけです。これだけ真を尽くしたのに、これだけ一生懸命なっておるのに。ね。だから、時節を待っておかげを受けたら良いと仰る時節を待っておる内に、そういう円らな栗の実が、こう一人でに転がり出て来るようなおかげを受ける。または、イライラ、ジガジガ、本当に、けれども、金光様をいよいよ念じさせて頂いてです。それを、ね、その事を修行と思うて受けさせて頂いて、ね、それが割ってみたところが、中からは、もうそれこそ珍味の味わいのウニが出て来たという事。

 そういう私共が難儀を感ずれば感ずる時ほどです、本当言うたら素晴らしい味わいのおかげが受けられる時なんです。それも、こげなジガジガするモンはいらんと言うと、(   )それ切るのだと。ね、またそういうジガジガだからと言うて、ね、もう無理に剥いたところで、それは青い実しか、まだない。いわゆる、一人で円らな実が飛び出してくるほどしのおかげが受けられるのに、それを良う受けきらん人が沢山ある。

 そのジガジガをこそ修行と思うて受けさせて頂くところから、もうそれこそ、天下一品の珍味と言われるようなです、味わいの物が出て来るように。私共がそういう、例えば49節と言うのは、まあ始終苦と書いてある。世の中はもう本当に、もう何時もが苦の、苦の世界なんです。この世は苦の世、苦の世界だという、始終苦なんだ。いつも苦なんだ。ね、だから、それをもう言うと、何時もお徳を受けさせて頂くチャンスに、があるという事なんです。ね。いわゆる、栗のような場合もありゃあ、ウニのような場合もありましょう。

 そして、その事がです、もう苦というものではなくて、神様の御神慮、御神愛であると分かって来る時です。苦は苦ではなくなってくる。ね。私は今日の、この49節から信心は愛縁奇縁という。ね、それを今日は、あいよかけよという教祖様のお言葉を、から頂いた。ね。このあいよかけよという事が、の味わいというものが分かったところから、お互いに捧げ合うという、いわば奉仕の生活が出けるようになる。ね。

 そこから、(  )も言われぬ、今まで、ね、夢にも思わなかったようなおかげが、一人でに生まれて来るようなおかげになった。本当に、天下の珍味と思われるような味わいの味わいを、味合わせて頂きながら、日々を過ごさせて頂ける。それが、真に有り難いという事。どんなに考えても勿体無い。どんなに考えても有り難い。ね、その有り難いにいよいよ有り難いものが育って行くという事になるのです。ね、おかげは、なるほど受けねばなりません。けれども、おかげを現して行くという信心に目覚めなければなりません。

 おかげを現すという事は、ね、神様と私共の、例えば私が一人助かれば良いというのじゃなくてです。ね、神様も助かって下さる事の、ね、言うなら御神慮に添うた信心という事にもなりましょうか。あいよかけよという、氏子が神様任せなら、神様がまた氏子任せになって下さるというほどしのおかげを、あいよかけよと言う。ね、受ける信心から現す信心。そういうウニに育って行く事のために、私どもの行く手には、本当に栗のジガジガにも似たような、またはウニのイガイガに似たような事柄に当面いたしますけれども。

 そこんところを有り難いと分からせて頂くような信心。そこから、ね、円らな栗の実に、も得られる。地味と言われるウニのような味わいの味わえる信心も、味わい、真に味わい、味わい、信心が楽しゅう出けるというおかげ。私はあいよかけよという事と、今日は、信心は愛縁奇縁と。この、愛縁という事。いよいよ縁というものが深く、深いモノになって行く。もう、昨日もある(   )の方達がお礼に出てみえました時に、ね、こう、カラ結びを頂いた。

 ですから、色んな問題は沢山あるだろう、これから。ね。結婚生活というものは、決して、ただ楽しいとか、楽なとかいう事ばっかりじゃない、面白い事ばっかじゃない。ね。どういうような場合でもある。二人なこう裂こうとするように、こうやって引っ張るような場合すらあるかも知れん。けれども、お互いが固くカラ結びに結ばれてさえおる限りです。引っ張れれば引っ張られるほど、これは固く結ばれて行くんだという御理解です。ね、それにはです、二人の者が本当にお互いの、ね、あるものを出し合うて行く。ないモノはカバーし合うて行く。そういう二人の検診のし合い。言うならば、捧げ合うて行くという人間関係からです。ね、そこから、音も言われん尊い夫婦愛というものが生まれて来る。

 ね、二人には持っていなかった、また別な味わいというものが生まれて来る。ね、そういうおかげを頂かせて頂いて、はあ素晴らしい愛縁であったという事になるのです。合楽に縁を頂いておって良かったと言えれるならばです。言えれる為にはです、今日私が申しましたようなところを頂かなければ、ね、自分の思うようにならなかったら、おかげでないような思い方をして、信心から離れて行くという人がどのくらい沢山あったか分からん、今日まで。ね。それが愛縁になって行ってないから。それは、あいよかけよの信心の心というものが分かっていないから。信心の上においても、人間関係の上においても、(   )あいよかけよという事が素晴らしい事になって来るんですよね、どうぞ。


                 末永信太郎 ( 7月15日 )